次の5年問の私共の演劇活動も、前期の終りにきめられた本公演2回・日曜劇場3回・可能な範囲での旅公演という、きわめて窮屈な粋のなかで行われねばなりませんでした。

ご承知のようにこの5年間は、安保条約改訂反対の全国的全国民的な統一行動の波が数ヶ月にわたって国会を包むにいたった、あの画期的な政治的危機の時期にはじまります。私共は劇場の借金の返済などという大変みみっちい、しかし私共にすれば全く力にあまる大仕事をかかえながらも、人間の自由と幸福を、全世界の平和をねがう芸術家の立場から安保反対新劇人会議に集つた他の新劇団の仲間といっしょに積極的にこの闘争に参加し、新安保条約の批准後も、この会議を中心に新劇団の統一をまもリ、国会議員選挙、政暴法反対、日韓会談反対、核戦争・核実験反対、軍事基地反対、全面軍縮即時実施などの運動に加わってまいりました。
 さらに中国の革命的劇作家関漢郷を記念する合同公演、文学座、民芸、東京芸術座、ぶどうの会、俳優座による訪中新劇合同公演、労音との協力による中国の音楽劇「劉三姐」の上演、訪日中国演劇人代表団の招請などの場合にも、その推進団体のひとつに加わって、日中文化交流のために努力し、また新劇運動内部の問題としては、入場税撤廃、職安法反対の運動や、日本新劇経営製作者協会、日本演出者協会のような新劇の職能別団体の結成、観客組織の拡充、新劇雑誌「テアトロ」の編集・維持などの仕事に協力したり、民芸、舞芸座、泉座、東京芸術座、青年座、三期会、新人会、俳優小劇場、俳優座などによる土方与志三周年記念合同公演を堆進したりしました。

創造活動の面でも私共はこの時期に、いかに新しい時代の要求にこたえるか、いかにして新しい時代にふさわしい新しい演劇的表現を生み出すかという点で、さらに一歩を進めました。そのことを私はこの時期のはじめに、俳優座の機関紙「コメディアン」(1959年4月号)のある対談のなかで次のようにしゃべっております……

「さつきの、戯曲から出発しなければならないということね、これはある一つの技術としての戯曲ではなくて、結局、現実から出発することなんだと思う……」

「今の観客になにをどうアッピールするのか、今のこの現実をどうしたら表現できるか、というところから出発して、演劇行動が始められねばならないのに、今まではどうも自分勝手な枠をつくって持っていたきらいがある……」

「現実からはなれて『芝居というもの』をいじくりまわしているとつい固定してしまう。だからどんな新しい方法にしろ、スタニスラフスキーにしろブレヒトにしろ、ただそれを芝居のやり方として研究するだけでは何もならないですよね。それを日本の現実の必要にあてはめて、日本の見物にみせる芝居としてまとめるには、いったいどうしたらいいかを研究しなければ駄目だ。無論それを日本で生かす方法はいくらでもあるし、研究するのは無駄なことではないけど……」

「うまい戯曲を書ける専門家を頼りにするのもいいがその人たちがこの現実から遊離してしまっている場合には、いくら戯曲から出発するといっても、本当の出発にはならない……」

そんなふうに考えて、私共はこれまで劇団にひきつづき作品を提供して下さっていた田中千禾夫、田中澄江、小山祐士などの劇作家のほかに戦後の現実と深く結びついた小説家や評論家のなかで戯曲の創作に関心をもっておられる、安部公房、椎名麟三、野間宏、佐々木基一、花田清輝氏らと話しあい、劇団に作品を提供していただくために「三々会」という集まりをつくりました。
 その後の安保反対闘争のごたごたのなかで、この会そのものはいつか立ち消えになりましたが、ともかくこの会を通じて、安部さんはもとより、椎名さん、花田さん、さらにこれらの人を通して、石川淳さんに脚本を書いていただいたり、そのお約束をいただいたりすることができ、石川さんの「おまへの敵はおまへだ」(1961/10)、椎名さんの「夜の祭典」(1961/9)が、この時期の私共の演目の新しい特色のひとつになりました。

それはともかくとして、この時期の私共の演目のなかで重要な位置を占めているのはやはり田中さんと安部さんの作品であります。
 田中さんはこの時期に「千鳥」(1959/10)、「鈍琢亭の最期」(1961/1)、「大姫島の理髪師」(1963/1)を劇団の俳優たちにあてはめて書きおろされましたが、これらの作品は、新人会のために書きおろされた「マリアの首」(1959/2)、「伐るなかれ樹を」(1961/5)、青年座のために書かれた「8段」(1960/6)などとともに、劇作家としての田中さんの円熟をしめすみごとな作品ですが、そのどれもが再軍備、熱核戦争、軍事基地、天皇的封建制の残滓などのきわめてアクチュアルな問題との結びつきのなかで、この作者独特の主題を展開させている点に、新しい特色がうかがわれます。

安部さんの作品は、1959年6月の「幽霊はここにいる」の再演にひきつづき、戦時中の民衆の戦争責任の問題を今日の逆コースの世の中との対比によって浮かびあがらせた「巨人伝説」(1960/4)、安保反対運動の中での中小商工業者の成長を描きながら「安保」後の展望についての作者の考えを述べた、アクチュアルな「石の語る日」(1961/1)、独占資本化の人間的自己疎外(その階級意識、その荒涼たる内的頽廃と孤独)をとらえた「城塞」(1962/9)が毎年、私共の舞台に異彩を放ちました。
 これらの作品は、安部さんのお得意のソングや合唱やシュプレヒコールをまぜこんたミュージカルス的手法のほかに、映画や記録写真やタイトルや「劇中劇」の揮入によって、過去と現在、記録と劇、抽象と具象とを交錯・対照させる新しい手法を試みている点で注目すべきことでありました。

この時期に私共が舞台にのせた小山さんの「黄色い波」(1961/5)が、この作者独特の郷土色ゆたかな、静かな、美しい抒情的な流れの底に、根強い熱核戦争への怒りや平和への祈りを、さらに今日の反動的な政治に対する鋭い批判をたたえていたことも、やはり注目すべきことでありました。

外国劇については、この期にはじめてブレヒトの作品――「セチュアンの善人」(1960/9)や「三文オペラ」(1962/10)――が俳優座のヴェテランたちによって演じられたこと、それが私共の長年のブレヒト研究や、私共の養成所で全面的な訓練を経て来た若い演技陣に支えられて、一応ブレヒト劇の真価をうかがうに足る舞台成果をつくりあげたことが、まず云われねばならないでしょう。

また、この時期におけるシェークスピアの「十二夜」、ゴルドーニの「一度に二人の主人を持つと」の上演が、ミミック演技術のあらゆる可能性、あらゆる楽しさを引出そうと努めた小沢栄太郎の軽快な演出、きびしい演技指導によって、全く新しい粧いを私共の古典劇上演に与えたことも、特筆すべきでありましょう。

この時期の私共の演目にたいして、その選び方に一貫性がないとか、創造方法の上での統一がないとか、はっきりしたイデオロギーがないとか、またむずかしくて大衆性がないとかいう批評も一部にはあります。たとえば一九六一年度の「石の語る日」と「黄色い波」は一応、“前向き”だが、「おまへの敵はおまへだ」や「夜の祭典」は“後向き”だとか、1962年度の「鈍琢享の最期」「一度に二人の主人を拝つと」「桜の園」「三文オペラ」「城塞」とならんだレパートリーのどこに一貫性があるか、とかいうていのまことに偏狭な批評です。

私共のレパートリー選出の基本的な方針や創造方法については後で述べますが、大体この種の偏狭な批評は、現実のアクチュアルな問題と普遍的・哲学的な問題とを妙に切り離し、前者の中に後者を考え後者の中に前者を考えてみようとする努力を怠っていること、その能力をもたないこと、芸術的真実についての、また演劇的表現の多様な可能性についての、きわめて狭い考え方や貧弱な感受性しかもたないこと、今日の社会に演劇が果さねばならぬ幅ひろい役割について大変小さな片寄った視野しかもっていないことから来ているように思われます。

私共の演目がむずかしい、大衆的でないという批評については、私共も私共なりの反省をもってはおり、アクチュアルで普遍性をもち、しかも誰にも楽しい芝居をつくることは、私共の一番やりたい仕事ではありますが、一番むづかしい仕事であり、私共の力はまだそれには足りません。だが私共はそうした芝居を創り上げる力を養うためにも、私共のいま歩んでいる道が正しいと確信しています。
 いろいろ不都合な条件のなかで生活することをやむなくされておられる広い層の人々に受取りやすい楽しい芝居を、もっと多く私共の演目にくわえていくことの必要は、もちろん私共も痛感しております。だがそれには、現在極端にせばめられている私共の公演の枠を、もっとひろげねばならないでしょう。

さいわい1961年秋、劇場建設のために生じた、下手をすれば私共の命とりにもなりかねなかった負債をすっかり返すことができましたので劇団の創立20周年を期して私共の仕事を再び正常な軌道にのせょうと努力しております。
 そうなれば私共の公演の枠ももっとひろげられ、私共に課せられた幅ひろい任務にふさわしい、もっと多角的なレパートリーの組み万をしていくことができるようになろうと期待しております。

 さて、たいへん大ざっぱな仕方になりましたが、私共のこれまでの歩みについてお話はこれでいちおう打切りにして、次に私共の今後の仕方や、芝居についての抱負について述べさせていただくことにいたしましょう。