新築の俳優座劇場での五つの十周年記念公演をおえると、私共は、劇場建設の難事業をいっしょに耐えぬいてくれた34人の準劇団員を劇団員にくわえて、62人の共同責任による劇団の新しい体制をととのえ、再び劇団の大衆化、演劇公演を中心にした劇団職業化の線にたちもどり、劇団後援会の拡充、観客団体との連携の強化、地方巡演網の再建につとめ、最初の四年間は――

公演回数 上演回数 顧客数
1954年度 8 240 108,108
1955年度 13 309 222,295
1956年度 11 257 208,801
1957年度 10 339 260,505

というふうにかなり順調に進みました。特殊な「こどもの劇場」をのぞいた1957年度の上演回数302、観客数238,666という数字は、1951年度のやはり「こどもの劇場」をのぞいた上演回数263、観客数189,756をはるかに上まわつており、劇団公演活動は劇場建設の仕事による一時の停滞をすでに克服したことを示しております。

しかし、残念ながら、劇場建設のために生じた費用を劇場自体の働きで返却していくことができないため、それが雪たるま式に増大し、せっかくつくった劇場をひとで他人手にわたさねばならぬような状態になったために、劇団はこの劇場建設の発起者および最大の株主としての責任上、自分たちの力でこの借金を返してしまおうと考え、ふたたび映画・放送の仕事に主力をそそぎ、そのために1958年度の公演活動をつぎのように縮少せねばなりませんでした。

1958年度 公演回数
13
上演回数
244
顧客数
146,869

しかし今度は、本公演や地方公演を全然やめたりはせず、本公演を年2回、地方公演は映画・放送のスケジュールの許す範囲にとどめ、さらに「日曜劇場」(日曜の晩だけ、3ヶ月にわたって同じ演目をつづけ、こうした形の公演を年に3回おこなう)という公演形態を考え出し、少なくとも年に三つの新しい舞台を創っていけるようにしました。

この時期の俳優座のレパートリーのなかで重要な位置を占めていたのは田中千禾夫、安部公房、田中澄江、小山祐士の作品です。

特に劇団の文芸・演出部に籍を置く田中千禾夫さんの戯曲は、原罪と神、強烈な自我への執着と愛、女性憎悪と女性崇拝のテーマをきびしく追求するとともに、その表現形式の点でも、従来の「劇作派」を超えた、独自の美しさを生み出しております。この時期の俳優座の本公演や試演に、作者自身の演出で上演された「教育」「火の山」などは、田中さん自身の劇作に一段階を劃した作品であるだけでなく、俳優座全体の思想的成長、創造方法の発展にとっても重要な意味をもつものでした。

それと同じように、この時期にはじめて安部公房さんの作品と識りあったことも、私共にとっては大きな意味をもっています。きわめてファンタスチックな、しかも緻密に計算された軽快な手法によって、資本主義社会における人問の自己疎外をさまざまな角度から諷刺的に描いた「どれい狩り」「幽霊はここにいる」は、演出の面でも、演技の面でも、これまでのドラマチックな演技ではどうしようもない、新しい課題の前に私共を立たせました。

もちろん、私共が自分たちの演出や演技の方法の再検討の必要を感じはじめたのは、田中さんや安部さんの作品にぶつかったためだけではありません。その頃ようやく私共が、舞台や脚本を通して、第二次大戦後のヨーロッバの演劇の動向を識りはじめたことも、そのひとつの原因だったとも云えましょう。しかし根本的には、終戦後、自分たちの仕事の内側にのみ向けられていた私共の眼が、ようやく外に向けられるようになったこと――朝鮮戦争のいわゆる特需景気のおかげで取戻した権力を維持し拡張しょうとする独占資本家たちの再軍備開始、ァメリカ軍事基地増強、破防法制定、教育法改訂、平和憲法改訂などの反動的施策、それに対する革新勢力の反対運動の拡大と統一、原水爆の保有やスターリン批判やスプートニクの打上げなどによってはっきり実証されたソ連の技術的・工業的・思想的成長、朝鮮戦争や国内の社会主義的建設に示された中華人民共和国の実力、アジア・アフリカにおける民族独立運動のあいつぐ成功、それに支えられた世界の平和運動、原水爆反対運動のたかまりなどに、私共が大きく心をゆすぶられ、この新しい世界の新しい力を演劇的に表現するにはどうしたらよいか、まだ古い世界に眠っている人々を社会的に能動化するにはどういう方法が必要か、という問題の前に立たせられたことが、なによりも、その原因だったといえましょう。

私共がブレヒトに関心をもちはじめたのも、やはりこの時間、同じ動機によるものでした。私共が戦後ブレヒトの作品にはじめて触れたのは1953年の俳優座養成所卒業公演に「第三帝国の恐怖と貧困」を上演したのが最初でしたが、その後、俳優座劇場のこけら落しのパンフレットに、私はこんなことを書いています――

「ブレヒトの『叙事詩的演劇』とか、演技における『異化的方法』とかいうものに、私は近頃大いに興味を感じている。私共はこの十年来、『戯曲的演劇』とか、演技における『同化的方法』とかいうことに憂き身をやつして来た訳だが、これらの問題をもっと高い観点からもう一度考え直してみたいと思うようになった。『戯曲的』とか『同化的方法』とかいうものをもう卒業した訳ではない。『戯曲的』なるものを見きわめるための一つの大事な手続きとしてもである。」

「もしかすると、演劇は単に『戯曲的』でのみある必要はないのかも知れない。文学に抒情詩、叔事詩、劇詩という基本的な類があるごとく、演渕にもまた、戯曲的演劇と共に、抒情詩的演劇、叙事詩的演劇という類も成り立ち得るのかも知れぬ。」

「一時代の演劇的作品のなかで、あるときは叙情詩的な、あるときは叙事詩的な、あるときは劇詩的な、傾向が優位を占めるということ、そうした一群がとくにその時代にもてはやされるということの原因は、ジャンルの形成の問題として、演劇社会学の立場から検討されねばならぬのであろう。しかし私共の演劇をもっともっと豊かにしていこうとする立場からの、叙事詩的演劇ないしは叙情詩的演劇についての本質論的研究や実験にも、決して尻ごみしてはならないのであろう。」(パンフレット「俳優座」第1号、1954年4月)

俳優座がブレヒトの作品を本格的に上演しはじめたのは、つぎの時期にはいってからですが、すでにこの時期に私共は、俳優座演劇研究所の「演劇論研発会」において、あるいはスタジオ劇団における実験を通じて、ブレヒトの作品と取組みはじめました。

世界の動きについての私共の関心が深まるにつれて、私共の社会的活動もだんだん積極的になってまいりました。またそれにつれて新劇運動の内部にも、文学座、民芸、俳優座による合同公演の実現、俳優座、スタジオ劇団、新演、八田演出研発所などの青年俳優の協力による合同公演(ブレヒトの「ガリレイの生涯」)、国民文化会議の枠内での劇団協議会の結成、新劇俳優協会の創立など、新劇団の間の協力の気運がふくらんでまいりました。私共は新劇運動内部のこうした動きに積極に協力しただけでなく、憲法擁護、基地反対、原水爆反対の運動や、日ソ・日中・日朝の友好、文化交流、国交回復のための仕事などにも、劇団員が進んで参加するようになっていきました。一九五八年十一月の警職法反対の文化人たちの「静かなるデモ」には多くの新劇人にまもられながらわが座の長老東山千栄子も隊列に加わりました。